さなぎ島郷土史掲示板
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江戸期の島の職業  埼玉のさなぎ  2012年02月20日(月) 16:24  No.01038   引用    
 
  おじゃまいたします。

私が以前見た明治初期の資料によると、佐柳島の住民の職業は、漁業従事者の割合が、他の島に比べてだいぶ高かったように記憶しております。
逆に、水夫の割合は低かったようです。

さて、江戸時代の佐柳島のことです。
佐柳島の方々は、多くの家が、漁で生計を立てていたのでしょうか。
廻船に乗り組んでいた人もいたと思うのですが、その割合はどうだったのでしょうか。


小笠原、-2  酔人漫  2012年02月18日(土) 20:56  No.01036   引用     Webサイト
 
   ただし,渡辺清次郎は、千秋丸に乗っており、咸臨丸に乗っていた角之丞の事を見たように書いているが、彼は、角之丞には、あっていない、!! この事を真実のように言うのは、疑問である。特にこの2人は、同じ部落の家も近所で、角之丞が、遥か年上で渡辺清次郎が、どのように考えてこのような報告をしたのか、考えてみる必要があります。
 
Re: 小笠原、-2  宮三郎  2012年02月19日(日) 14:34  No.01037
 
   このような書き方は気持ちの良いものではありませんが本人達は至って冷静です。角之丞の関係者、宮本、若林家の今の関係者は元気があって仲間達に愛されていたのですねと言っております。石川大助の事も乱暴者と書かれており石川の御当主は少々おかんむりでありました。
 ふとよく考えるとこの三家すべてわが家と親戚でした。渡辺清次郎の実家はもう泊にはないし怒鳴りあげることもできないし。活字はおそろしい。


小笠原探検隊  酔人漫  2012年02月07日(火) 17:33  No.01021   引用     Webサイト
 
   2月4日に、横須賀で、宮三郎さんに久々にお会いして、6日からの小笠原調査を御願いして参りました。『小笠原島流しの刑』とも言われておりますが,おがさわら丸は、6日の10時に、竹芝桟橋を離れ、一路小笠原へ、海も比較的穏やかでしたので、楽しい船旅だったと思われます。さて本日,昼前に到着しておると思いますが、いかがなっておりますか?情報を待ちましょう!!
 
Re: 小笠原探検隊  鐵五郎  2012年02月07日(火) 18:10  No.01023
 
  いいなーぁ!
情報お待ちしてま〜す。

特等で行ったのだろうか。気になる料金・・・・。
 
Re: 小笠原探検隊  宮三郎  2012年02月12日(日) 11:14  No.01025
 
  帰ってきました。
期待に沿えず残念。一番安いおがまるぱっくで船賃ホテル逢わせて63000格安パックです。冬場は格安に限ります。特等は船賃だけで53000で往復すれば10万超えます。c隻、甲板と同じフロアーから抜け出し最下層のeデッキに潜り込み一番揺れの少ない所です。咸臨丸関係者とゆうことで特別待遇でブリッジに案内されましたが揺れること揺れること。船体上部は揺れます。一行八人連れで島内は完全に分かれて行動しました。朝陽艦の墓三人分は藪の中にあり人も余り訪れていないようです。墓も高さ三〇センチ幅20センチくらいの小さな墓に三人の名前と出身島が書いてありました。何とかしないと藪に埋もれるかしれません。追々報告したいと思います。なにぶん要塞の島でして隣の硫黄島と同じような島でいたるところに砲台、弾薬庫通信施設がありました。
 
Re: 小笠原探検隊  鐵五郎  2012年02月13日(月) 21:24  No.01026
 
  宮三郎さんお帰りなさい。
小笠原父島はいかがでしたか。
意外と格安料金で行くことができたのですね。
ありがたい情報です。
気になる塩飽の水夫3人の墓は藪の中でしたか。
お参りは出来たのでしょうか。
写真は撮れましたか。果たして文字は判読できる状態でしたでしょうか。
自然いっぱいの美しい島ですから見るところもいっぱいあった事でしょう。
ご報告を待ってます。
 
Re: 小笠原探検隊  宮三郎  2012年02月15日(水) 09:31  No.01027
 
  場所は藪の中です。昔は外国人の居留地の側ですから何ともいえません。小笠原村も一度は流されたのを台座を造り、掲示板を建てています。墓参に訪れる人はほとんどいません。小笠原村の方も極力変更はしないようにしていると言っており正論かと思います。
サンフランシスコの咸臨丸墓地は自衛隊練習艦隊がはいるたびに清掃、墓参をいているようですが小笠原の方は無視されているようです。
 私もそのままにしてきて反省しております。そのたたりか帰国後インフルエンザで3日間寝たきりです。
 
Re: 小笠原探検隊  鐵五郎  2012年02月15日(水) 14:16  No.01028
 
  宮三郎さん、この写真からははっきりと文字が読み取れますありがとうございました。
死亡年月日も入っています。
この日付から朝暘丸が二回目の航海の時に江戸ではやった麻疹のために熱病で亡くなったと推定することができます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
文久二戌
  八月二五日 櫃石島 俗名三代吉
  同 二七日 高見島 俗名金右エ門
  同 二九日 佐柳島 俗名忠蔵
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<一回目の小笠原探検の日程>
咸臨丸 文久元年一二月七日 浦賀出港 一二月一九日父島到着
    文久二年三月九日  父島出港 三月一六日下田到着
朝陽丸 文久二年三月一七日 父島到着
千秋丸 文久二年四月二日  父島到着

<二回目の移住者を募っての航海>
朝陽丸 文久二年六月一八日 品川出帆 その夜浦賀入港
乗組員の多くがはしかを発病し療養。
七月二〇日浦賀出港 八丈島からの農業移住者三八名を乗せ八月二六日父島入港
この時熱病で水夫三名、火焚き一名が死亡、奥村の墓地に葬られた。

八月二六日に入港したが既に櫃石島の三代吉は二五日に船内で死亡し、入港翌日と三日後に高見島の金衛門、佐柳島の忠蔵が続いて亡くなっている。
 
Re: 小笠原探検隊  宮三郎  2012年02月15日(水) 19:02  No.01029
 
   小笠原の咸臨丸墓地とされているところ。咸臨丸の死者の墓は福井大野藩の侍で自殺したもの。(一番右手)ここはミカン船遭難者、幕府、明治政府関係者の墓となっている。このようなままで良いのか後ろ髪を引かれる思いであった。
 
 
Re: 小笠原探検隊  鐵五郎  2012年02月17日(金) 18:31  No.01033
 
  咸臨丸乗船塩飽水主(42人中、渡米経験者18人)
本島=*善三郎、*清蔵、善吉、鎌吉、*吉之助、*実次郎、藤太郎、*宮三郎、惣太郎、*延太(次)郎、*角之丞、島一郎、*幸三郎、常造、佐兵衛
広島=*仁作、*弥十郎、*国蔵、*源三(次)郎、卯吉、貞吉、*仁助、*伊三郎
手島=八之丞
与島=勘兵衛、忠右衛門、石造、弥太郎
櫃石島=*次作、善右衛門、藤八、利兵衛、房吉
佐柳島=*常三郎、熊吉
高見島=友吉、助右衛門、*竹造、加吉、房吉、*吉松、寅吉

「1月27日、咸臨丸の士官西川倍太郎が奥村の仮役所で縊死するという事件が起きた。彼は浦賀出版の直後からしきりに江戸に帰りたいなどと漏らし、ノイローゼ気味であった。倍太郎は越前大野藩士で、遺体は奥村の渓流の傍らに葬られた。現在その地にはこの年の7月に到着した朝陽丸の測量方士官で、兄の西川寸四郎が建てた墓石が残されている」

「寛文12年(1670)2月、阿波國海部郡浅川浦の船主勘左衛門の持ち船(11反帆、船名不明)で船主兼船頭の勘左衛門一行7人が乗り組んでいた。紀州から江戸へ向かう途中遠州灘で強風のため遭難(12月6日〜2月20日)、72日間漂流して無人島(母島)に漂着した。伝馬舟で上陸すると人の住む気配はなく水も十分にあり、その夜一行は付近で倒れ伏すように眠った。翌朝、一同が起き上がってみると船頭の勘左衛門はその場にこと切れていたという。・・・・50日ほど逗留して拾った板や破損した船の用材で四反帆の船を造り六人は四月二五日八丈島に着いた。五月五日下田に帰還し奉行所に漂流の顛末を届け出た」
 
Re: 小笠原探検隊  宮三郎  2012年02月18日(土) 10:10  No.01034
 
  咸臨丸の士官西川倍太郎が奥村の仮役所で縊死するという事件が起きた。これに対し水野氏は激怒し、仮役所を焼き払い扇が浦に移転させます。
 この扇が浦がいまは藪に覆われております。藪をかき分け石垣跡を調査致しました。ほぼ役所跡ではないかとゆうところまで小笠原村役場の学芸員と絞りました。当時集落があった洲崎と扇が浦を結ぶ峠道五十メートル程が「アイタタ坂」となります。真っ暗な中探しました。宮の浜とゆうところがありますがここは島谷氏が上陸点です。島谷氏の航海術ですが緯線の出し方は詳しく書いてありますが経度線の出し方は書いておりません。良く航海できたな。島谷氏の図を参考に林子平が出版しておりますが島谷氏の作図は正しく林子平の父島は九十度回っております。やはり行った事のある人は強い。
 
Re: 小笠原探検隊  鐵五郎  2012年02月18日(土) 16:18  No.01035
 
  「渡辺清次郎(本島泊浦の人、のち明治4年兵学寮の教官になる)が語った小笠原島珍話。角之丞も大助に劣らぬ不行状で、船が二見港に着いた時、病気のため最早一歩も歩けぬので洲崎村の役所の医者の許まで大勢で担いで上る途中『アイタ、アイタ』と呻(うめ)いたので、水夫どもはその地をアイタ坂と命名し、また南無阿弥陀仏と唱えたのでその坂を念仏坂と付けたとのことである」

<朝陽丸乗船塩飽水主(文久2年3/9〜4/11)49人>
本島=善太夫、平吉、金次郎、吉之助、善次郎、清助、粂次郎、峯吉、忠次郎、徳造、常蔵、新蔵、七郎兵衛、周蔵、役造、初次郎
牛島=菊松
広島=秀蔵、和市、平兵衛、信次郎、金太郎、繁次郎、鶴松、長松、弥八、貞八
手島=藤蔵、幾蔵、鹿蔵、文吉、千代松
櫃石島=直蔵、好造、三代吉、万吉、栄三郎
岩黒島=長左衛門
瀬居島=八十右衛門
佐柳島=喜兵衛、忠蔵、元之助、庄左衛門
高見島=岩吉、嘉助、弥吉、延次郎、金右衛門、*清左衛門

<千秋丸乗船塩飽水主>(30人中、判明は5人)
本島=渡辺清次郎、*石川政太郎、*石川大助
牛島=*金左衛門
瀬居島=古川庄八


小笠原探検隊 宮三郎隊長殿  櫃石島  2012年02月16日(木) 22:09  No.01030   引用    
 
  無事帰還されて何よりです。
八丈島を過ぎると海の色も波も変わったと思います。
30年前に私が行った時は枕元に洗面器がありましたがありましたか?
私はベットでもなく室内でもなく廊下での宿泊でした。それも玄関の靴の横です。
それでもいいですと宿泊させていただきました。楽しい旅行でしたが、
塩飽の櫃石の水夫のお墓があることは当時、全く知りませんでした。
今なら違う小笠原訪問になったと思いますが遅いですね。
インフルエンザはたたりではありませんよ。このように小笠原まで行き調査をして
各位に報告してくれた方に災いを及ぼすような先祖様ではありません。
感謝していることと思います。
 
Re: 小笠原探検隊 宮三郎隊長殿  宮三郎  2012年02月17日(金) 09:39  No.01031
 
  有難うございます。最初に案内されたとき、櫃石、佐柳、高見の人々や遺族に合わせる顔が無いと感じ手を合わせるよりも立ちつくしました。咸臨丸、朝陽丸、千秋丸の小笠原領有の努力成果は日本史上決して小さなものではないと思います。その途中において出た死者に対してもっと報いても良いのではと怒りさえ感じております。咸臨丸のアメリカでの死者の墓と比べて差がありすぎる。この事は後日何とかぜねばと思っております。
 今でも最低限の小笠原丸船旅は避難所体験と同じです。ずらりと毛布が並べられており同じ番号札の所に寝る事になります。夜中のトイレは人の足を踏み踏み行きます。船が揺れるので踏まないように歩けば踏むので踏むようにして歩けば踏みません。
一番快適な方法は自衛隊の飛行艇で行く方法です。政治家、高級官僚はろくな仕事しかぜずにこれを利用しております。一般人は大けがをしたり生命の危機の時しか利用できません。船は約26時間、飛行艇は三時間です。
 
Re: 小笠原探検隊 宮三郎隊長殿  鐵五郎  2012年02月17日(金) 16:08  No.01032
 
  世界遺産の自然環境ですから飛行場は無理なんでしょうね。
咸臨丸子孫の会の記事が四国新聞にありましたので転載します。
ちょっと古い情報アップです。

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咸臨丸乗組員業績しのぶ/神奈川で子孫の会総会 2012/02/07 09:47
 咸臨丸子孫の会(小林賢吾会長)の総会がこのほど、神奈川県横須賀市で開かれ、関東をはじめ香川や長崎などから集まった咸臨丸乗組員の子孫たちが、祖先の業績をしのんだ。
 今年の総会は日本海海戦で活躍し、同市に復元保存されている戦艦「三笠」内で開催され、全国から約70人が出席した。
 元自衛艦隊司令官の谷勝治さんが「咸臨丸と海軍の伝統」と題して講演。自衛艦がアメリカのサンフランシスコに入港した際は、自衛官たちが現地にある咸臨丸乗組員の墓を訪れていることなどを紹介し、咸臨丸と海軍のつながりについて持論を述べた。
 咸臨丸は1860年、日本の軍艦として初めて渡米に成功。操船した水夫のうち35人が塩飽出身だった。咸臨丸は渡米から2年後、塩飽出身のオランダ留学生、古川庄八と山下岩吉を乗せて一度だけ本島に帰港しており、今年がちょうど150年になることから「香川でも顕彰の機運がますます盛り上がってほしい」と同会では話している。
(東京支社)


小笠原探検隊  櫃石島  2012年02月07日(火) 22:03  No.01024   引用    
 
  小笠原探検隊が横須賀でお会いしてから出立したとのことです。
私が30数年前に小笠原へ行った時は一番安くて一番底の部分で
枕元には洗面器、何のためかすぐに想像で来ました。
今なら、目的を持って乗船できたのにと思いますが時間は
戻せません。成果を楽しみにしております。


佐柳ふるさとの会新年会  鐵五郎  2012年02月07日(火) 11:48  No.01020   引用    
 
  おそがけの新年会ですが例年通り2月の第一日曜日に開催されました。
場所は三宮の生田神社の西門チキンジョージを西へとあるビルの3階スナックパール。
12時から5時まで参加20名で楽しく熱く語りカラオケ三昧でした。

参加者の傾向を見てみますと佐柳中学卒業まで佐柳で生活したグループと父母が佐柳で神戸大阪などで生まれ育った2世のグループ、これらの人たちと親しい友人で佐柳の会に参加したり佐柳島へ遊びに行ったことのあるグループがほぼ3分の一の割合になっています。

反省はそこそこに今年はこんな活動をと会長から説明があり、次回は4月16日兵庫勤労センターで講演会を交えてふるさと談義を繰り広げる予定です。大勢の参加を期待しています。

今回4合瓶に詰め込んで持参した焼酎は森伊蔵だと言っても信じない人がいましたので証拠写真を掲示しました。
 
本のお礼  鐵五郎  2012年02月07日(火) 17:49  No.01022
 
  昭和わたしの証言V(津森明・西岡幹夫編著 美巧社 平成24年1月1日初版発行)という分厚い本を黒ちゃんから送っていただいた。
まえがきに、
『今回で3冊目であり、友人知己が筆を起こして執筆、歴史書に書かれていない知られざる昭和の出来事をも執筆、後世に残る記録ともいえる文を寄せて頂いた。』
あとがきに、
『6名の執筆者をご紹介下さった大阪香川県人会和田弘毅会長に深甚なる謝意を表する』
とあり、
まえがきで本の主旨が、あとがきで黒ちゃんに執筆依頼が来た訳が理解できました。
黒ちゃんの執筆内容は、
佐柳島の概要について述べ、お祭り、両墓制、初めてのテレビ、畑仕事、ぶさげ、「ばい」と「こみ」、うなぎ塚、映画「あの空の果てに星はまたたく」のロケ地、金の卵、ホームページ「さなぎ島へようこそ」の写真紹介。
こんなに上手にまとめられるなら文集さなぎにも投稿をお願いします。
1週間かかって読み終えました。高見島のター坊編集長に回覧します。

執筆者紹介(生年、現役時の代表職業)
雨宮恵二(1930、牧師)、和泉幸男(1941、大阪府議会議員)、糸山東一(1934、香川大学名誉教授)、井原彰一(1944聖マルチン病院院長)、岩瀬多喜造(1937、国税庁間税部長)、片山泰弘(1943、玉野市民病院名誉院長)、國重昭郎(1934、坂出市教育委員長)、黒田一吉(1949、池田警察署長)、桑島正道(1937、東かがわ市教育長)、湖崎武敬(1933、香川県歯科医師会会長)、小林宏暢(1936、小林医院院長)、笹本正樹(1931、香川大学名誉教授)、塩田博文(1953、塩田義塾塾長)、高徳敏弘(1955、香川県監査委員事務局長)、高橋幹(1943、高橋内科医院院長)、武田和久(1932、岡山大学名誉教授)、津森明(1934、四国新聞社取締役東京支社長)、内藤達郎(1941、広島県歯科技工士会会長)、西岡幹夫(1936、香川大学名誉教授)、藤井洋一(1931、多和小学校校長)、宮武正弘(1931、香川県警察協会理事長)、村井直樹(1939、池友会福岡新水巻病院勤務)、山本正幸(1932、環境省希少野生動植物種保存推進員)、米本仁(1928、厚仁会名誉理事長)


塩飽の年中行事  鐵五郎  2012年01月26日(木) 12:30  No.01007   引用    
 
  島の活性化の一助として島外から人を呼び寄せる事ができる行事を挙げてみました。
思いつきなのでこの他にもたくさんあろうかと思います。
また、佐柳島以外の事はあまり解っていませんので情報を教えて下さい。
 
Re: 塩飽の年中行事  のぶりん  2012年01月26日(木) 13:15  No.01008
 
  元旦に大天狗さんへの初詣ではいいと思いますね。島の人も大天狗さんへ初詣でに行きます。
 
Re: 塩飽の年中行事  N@高見島  2012年01月27日(金) 07:40  No.01011
 
  高見島の行事で
お盆行事・合同運動会が一番今は人が集まっています。
3月のお大師まいり高見島もなんとか・・・・・・・・・・瀬居もしています。
                   4月に旧暦で本島・広島がしています。
6月は夏祭り昔は旧暦でしたが今は新暦の6月に龍王宮のまつりなどしています。
9月は秋祭り
         ・・・・・・・・・・8月本島泊の虫送り
                     本島山寺の夏まつり
                   10月本島の文化祭
                   11月?広島の文化祭 
などがあります。
てくてくさぬき町歩きで 佐柳島・高見島にも出かけています・
            小手島・広島・本島・与島・などへもコース(春・秋)
            が行われています。
 
Re: 塩飽の年中行事  鐵五郎  2012年01月27日(金) 12:37  No.01012
 
  N@高見島さん、早速の情報をありがとうございました。
表に追加しました。
民俗研究の一助になれば幸いです。
ご存知の方は情報提供をお願いします。
最近まであったが過疎化で中止せざるをえないという行事もあるのではないでしょうか。
佐柳の秋祭りも昭和30年代後半で一旦中止されましたが小さな神輿で平成5年に復活しました。
伊勢講などはもう廃れたのでしょうか。
大天狗さんの祭も細々と住民会館で行われるようになったそうです。
佐柳ではひな祭りはなかったように思います。代わりにご婦人ばかりで山見と言ってお弁当を持って大天狗さんなどに桃の花見に行っていました。このような行事も母の代で終わったようです。
 
Re: 塩飽の年中行事  宮三郎  2012年01月28日(土) 17:20  No.01014
 
  本島お四国参りは三月二五日と思います。
帰ろうと思っています。
 
Re: 塩飽の年中行事  N@高見島  2012年01月29日(日) 09:38  No.01015
 
  本島のお大師参りですが、旧暦の三月四日でしているそうです。
昨年は4月7日でしたが、今年は3月25日だそうです。
 
Re: 塩飽の年中行事  宮三郎  2012年01月29日(日) 15:07  No.01016
 
  その通りです。今年は日曜日になりました。日曜日は島外からのお遍路さんが二倍以上になり、お接待が直ぐなくなります。早めにまわりましょう。一昨年も日曜日でお接待途中からありませんでした。   残念
 
Re: 塩飽の年中行事  鐵五郎  2012年01月29日(日) 21:35  No.01017
 
  旧暦で行う行事や新暦で催行する行事など色とりどりで毎年同じ日とは限らないようです。
今年は旧暦の3月は閏3月もあり3月21日のお大師さんの日が2回あります。
また、平日に当たるか土日に当たるかで賑わい状況も変わります。
http://www.justmystage.com/home/honjima/
 
Re: 塩飽の年中行事  宮三郎  2012年01月30日(月) 07:51  No.01018
 
  旧歴であるが子供の頃はなんで不便名ものと思っていた。ところが海を調べてゆくとこんなに便利なものはないと思った次第で。
 太陽暦は日にちだけであるが旧歴は漁に出る日、船を動かす日時間が即分かるのである。それも暦はなくても月を見れば日にちが分かり、潮が分かる便利で生活できる事を知ったしだいです。船乗りには欠かせぬものですね。
 
Re: 塩飽の年中行事  伊太郎  2012年02月05日(日) 08:06  No.01019
 
  これ良いですな、頂き!
本日、佐柳ふるさとの会、新年会に持って来て貰えますか?
島を離れている人は興味もない方がほとんどです。
活性化はまず出身者に活ですよ!(笑)
歴史でも何でもそうだが、島の出身者より外部の人がよくご存知。
これナンとかしませんか?
話(続き)は本日、昼からという事で〜
私、9時過ぎに家を出ます。


みちのく丸について  宮三郎  2012年01月28日(土) 07:26  No.01013   引用    
 
  弁才船、青森県のみちのく丸がこの夏、青森から西廻りで大坂まで航海する計画だそうです。子細が分かりません。四国新聞社や放送局は後援になっているそうです。
 塩飽寄航は当然でしょうがしまのままだと素通りでしょうね。


再び島へ  櫃石島  2012年01月26日(木) 19:50  No.01009   引用    
 
  宮三郎 様
再び島へ帰りたいと思っている人のことを考えているのですね。そんな人がいてくれたのが、うれしいです。塩飽のある島で、受け入れ態勢ができていないと言っていた人もいました。
宝くじの1等は私もだめでした。香川県は0本ですから。
ところで茶がゆに千石船風というのはあるのですか?
 
Re: 再び島へ  宮三郎  2012年01月27日(金) 07:28  No.01010
 
  干飯に茶をぶっかければ食べれるインスタント料理ですね。
海が荒れても食べることのできる料理です。
下北、津軽にも茶粥があるのには納得すると同時に少々驚きました。
下北の山子(ヒバを切り出す人夫)は1日二升の米を食べ黒砂糖を嘗めながら仕事をしています。(管江日記)
米の採れないところで豪勢な食事です。一日二升はすごいですは。
知り合いの兵士は奄美に遣られ米1日一升食べおかずは三食梅干しだけだったと言っておりました。


櫃石  櫃石島  2012年01月24日(火) 19:44  No.01003   引用    
 
  鐡五郎 様
新聞を見ていただき、ありがとうございました。21日に的を作り、22日が当日の写真です。一番左側が「櫃石島」です。今年も「大前」を務めさせていただきました。歴史は500年前からとありますが根拠なしです。昨年も四国新聞に抗議しましたが、根拠のないことは知っている。といって今年も同じことを書く、すごい新聞社です。こんな新聞社が存在するのです。怖いです。読者は本当のことと思うことでしょう。新聞ですから。読売は違う年数が書かれています。朝日は、昨年注意すると、嘘は書けないと言って、今年は違うことは書いていませんでした。感謝しています。

宮三郎 様
以前に本島で櫃石の写真を見せてもらいありがとうございました。昔の写真はもう撮れません。私がももてに出ようと思ったのは昔からの伝統がなくなってきているのを強く感じたからです。伝えれる人がいなくなっています。自分が伝えれるようになれば自分の代だけは伝えれると思いました。他のもも手も同じと思いますが、作法、型よりも的に当てることを第一としているように思います。当てれば、賞金、賞品です。これが先祖伝来伝わったものを壊しています。これが塩飽の人間のすることかと思います。
以前見せていただいた写真を可能であれだいただきたいのですが。記録と今後のももてに役立てたいと思っています。
 
Re: 櫃石  宮三郎  2012年01月25日(水) 06:50  No.01004
 
   フイルムスキャナーか印画紙スキャナーかどちらかを考えます。要は自宅の現像設備をすべて廃棄してしまった事に原因があり新たな方法を考えます。
 日本のマスコミが正常であれば我々はこんなに苦労しない訳で戦時中の新聞はひどいものでした。正確な情報を提供しておれば津波で死ぬこともなく原発が事故を起こすこともなかったです。
 塩飽の島々が過疎になることもなかったのではと思います。故郷ななくなって行く現実を突きつけられると暗然といたします。
 島に元気な老人を集める家をつくり島から出た人々を再び島で骨を埋めるような事をやりたいと思っているのですが。勤番所の前に四百坪ほどの空き地があり、勤番所を生かすような建物か庭をとおもっております。宝くじ当たらないかな。
 
Re: 櫃石  鐵五郎  2012年01月25日(水) 19:06  No.01005
 
  櫃石島さんはリーダーである「大前」を務められたのですか。凄い!
500年前からという記事は眉唾物ですか?
そういえばちょっと前の記事は600年前となっていました。
全国には800年とか1000年という所もあるようです。
宮三郎さん、宝くじ今回は残念でも次また買いましょうか。

<年末ジャンボの結果>
◎1等(2億円)(118本)
20本→東京、(20)
9本→大阪、(9)
7本→神奈川、愛知各、(14)
6本→静岡、福岡、熊本、(18)
5本→埼玉、千葉(10)
3本→北海道、福島、群馬、兵庫、広島、高知、鹿児島(21)
2本→茨城、栃木、新潟、石川、福井、長野、奈良、山口(16)
1本→青森、岩手、宮城、秋田、岐阜、滋賀、京都、愛媛、佐賀、沖縄(10)

○2等(1億円)(60本)
10本→東京、(10)
5本→北海道、神奈川、愛知、大阪、(20)
4本以下→記事から読み取れず。(30)

香川県、長崎県が無いのはさみしいですね。
 
Re: 櫃石  宮三郎  2012年01月26日(木) 08:25  No.01006
 
   勤番所前で門は長屋門風、白壁、なまこ壁、玄関は式台、四畳の造り。小部屋のある部屋10室、内装は弁天町の念入りな仕事。忙しいと断られれば郡家のオッサン。都会の喧噪を避け朝は静かに部屋にこもって塩飽海賊や日本の海運の調査、午後からは現場調査、夜はどんちゃん騒ぎ、朝は千石船風茶粥ですまし、夜は海賊バーベキュー、酒は世界中から取り寄せ飲み放題。海賊にならい女気無し。場所は問いませんが。
 宝くじも価値があるもんですな!! 先に入居者募集しますか。
 
 
 




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